逝水流年

アカデミーの辺縁にいる人のつぶやき

ある種の「予言」をまとめると、

今日は星たちが蟹座と山羊座との間で、

人々をイライラさせる角度を形成しているので、

蟹座と山羊座のそれぞれが代表するポイントで、

導き出せるキーワードが「家庭」となるのだ。

 

言い当たっているというより、

実に「別件」(いつものような件・論述文を書くこと)で相当大きなストレスは抱えているので、星たちが何の関わりがなくても、

すでにイライラしている。。。

 

 

で、キーワードは、「外的な・不可抗力」によって、「家に閉じこもられること」である。

仕方がないので、居場所の環境を向上させるため、

わざと、寝坊して、

家族のように思っている人に久しぶりの電話をし、

音楽をかけ、

アロマを垂らし。。。

あれこれ2時間も「努力」をして、なんとか神経を落ち着かせた。

 

 

忍耐力というか、自己解放というか、自分を追い込むというか。。。

若い頃よりはずっとましになったけど、

若い頃は音楽もアロマも人脈も、贅沢品だったけど。

 

やはり、環境のなかでしか、生きていけない。

蟹座が意味する「居場所」のなかで。

 

 

必ず読まれるよいう前提で、「FACE本」というSNSが作られたのだろうか。

いま、訴訟関係になっているが、その争点が「技術会社」か「メディア会社」かだ。

 

 

しかし、仮に、どうしても「メディア」という判定がされた場合、

「メディア」には、本当に「団結力」があるのだろうか。

 

 

「関心を集める」、というような言い方はある。

しかし、「関心」というものは、知っているから持つものなのか。

それとも、知らないから持つものなかの。

あるいは、ちょっと知っているから、もっと知りたくなった、とか。

知りたくないのに、知らされた、とか。

 

 

いずれにせよ、見ている顔と登録した顔との間をつなぐ、一致と不一致、またその一致と不一致を判定するのは、技術であることは確かだ。

ただ、だからといって、技術はメディアになる、ということは言い難い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

別姓かどうか。

異なる性(あるいは、性質)であるかどうかに対する認識にも関係する。

 

姓を同じすれば、均質化をはかりやすい。

しかし、均質化されるとき、「個性」は反発するだろう。

 

 

 

道徳は、社会集団の習慣だと伝えられている。

法律は、社会生活上における規範だと定義されている

婚姻は、愛情を前提としていることだと想像される。

以上の三項が全部「偽」となってきたとき、

確かに、「真」となりうるのは、「経済」のみである。

 

 

 

飛行機で北海道の一番北の稚内まで行って、

そこから、鉄道で札幌に戻った。

若かった自分の、旅行にまつわる自慢話だった。



今日、仕事で、車で松本まで行った。

いま、鉄道で京都に戻る最中だ。



飛行機は多くの地名の上を掠める。

車や鉄道は、地面を這いながら、多くの物語とともに、地名を示してくれる。

確かに、つい先程、通った場所だ、と気付かせてくれる。



自分の人生も、このような道のりになってきた、かもしれない。

飛行機(大いなる他力?)で飛べた距離も、自力で運転していくしかなくなってきた。

帰りは少し他力を借りれても。



ただし、変わらないのは、乗り物酔いだ。

他力酔い、とも言える。

自分でコントロールできないスピードのせいだろうか。



最初は本を読みたかった。

なんだか、吐き気する。

斜め上のスマホが、限界だ。。。







見事に、完全に乱れた。

髪、

ではない。

 

心、でもない。

 

環境。

あるいは、心が望む何らかの秩序と異なる秩序があったため、

言い換えれば、他者という秩序とぶつかったため、

最近の日々は赤信号、渋滞だらけ。

 

 

本当に、「星のせい」なんだろうか。

本当に、その「啓示」に従ったほうがいいだろうか。

 

 

アメリカは、シリアへの攻撃を開始した。

ひとつの秩序がもう一つの秩序を巻き込み始めた。

 

 

半月ぶり、MACの充電をし始めた。

ブログではない、もう一つの日記を、最後に書いたのは、3月22日だった。

 

 

一度、二度、三度、エンジンがかけられなかったこと、

あるいは、

ブレーキをかけてきたこと。

見えなかったこと、

あるいは、

漸く、実証されたこと。

実行できなかったこと、

あるいは、

すでに、決めていたこと。。。

 

 

 

嵐の前の静げさ。

走り出す前の静止したポーズ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

監視、監督、監獄・・・

 

 

合わせられて焦点。

測っている段取り。

見られている場所。

 

 

さりげなく、その目線と対決(その目指すところの性質を指摘)すれば、

その目線からの怒りを買う。

別の大義名分がかぶされる。

 

 

そういうとき、自分の中を見つめる。

おそらく、監視に対しての無視が発端である。

監視されたくないからゆえに、無視している。

監視されても、無視する。

 

 

大きい概念でいえば、「国家」が「民衆」の無関心を嘆く。

そこから、「統治」のジレンマが生まれる。

小さい概念でいえば、相手の気持ちを敢えて放置する。

そこから、喜怒哀楽の人間ドラマが繰り返し上演される。

 

目を閉じながら、光がないと言ってはいけない

光が眩しすぎたとき、たまに、目を閉じればいいのに。

 

 

 

 

美容院へ行くと、光沢紙のうえに、ツヤのある画像がいっぱい並んでいる。

ツヤ、あるいは、うるわしさ。

そのもとに、多分、「水」の概念が重要である。

 

 

仮に、心に沁みる言葉、というものが存在しているとする。

言葉は、うるおう力を持つ。

他方、心に刺さった言葉、というものも存在しているとする。

言葉は、血、もしくは、涙、のような「液体」を作り出すだろう。

 

 

言葉の物質性は、形があるためではなく、

形がないためである。

 

 

最初から色があるのではなく、

光を反射することで生まれる彩である。

 

 

水をどうやって生み出すのか。。。